

コ ラ ム
2026年8月4日
国語に必要な語彙力はどこから?
国語の問題を解くには、ある程度の語彙力が必要です。
当たり前のことに聞こえますが、高校生に国語を教えていたころ、国語が苦手な子はたいていここでつまずいていました。
ただし、足りていないのは四字熟語や慣用句ではありません。もっと手前の、日常で普通に使われる言葉です。
「野望」って、どういう意味ですか
以前、授業中に高校生からこう聞かれたことがあります。
「先生、『野望』ってどういう意味ですか」
私は、その質問の意図がしばらく分かりませんでした。高校生が「野望」を知らないという可能性が、そもそも頭になかったからです。何か文脈上の含みがあるのだろうかと、こちらが深読みしてしまったほどです。
別の子からは「『ブリッジ』ってどういう意味ですか」と聞かれました。
抽象的な比喩として使われているのかと身構えましたが、文中ではただの「橋」でした。
こうした質問をする子は、決まって国語に大きな穴のある子でした。共通テストで半分も取れない、というレベルです。
念のため書いておくと、この子たちは頭が悪いわけでも、不真面目なわけでもありません。むしろ、真面目に読もうとしていました。
日本語で書いてあるのに読めない、の正体
私は長いあいだ不思議に思っていました。日本語で書いてあるのに、なぜ読めないのか。
答えは単純でした。
文章を組み立てている部品が、ところどころ欠けていたのです。
一文の中に知らない言葉が二つも三つもあれば、内容を考える前に、文を解読するだけで力を使い切ります。評論文のように少し抽象的な言葉が続く文章なら、なおさらです。
国語ができないのではなく、国語を考えるための材料がまだそろっていない。そう考えたほうが、実態に近いと思っています。
これは高校生だけの話ではありません
現在、学童を運営していても同じ場面によく出会います。
三、四年生に「投票」「後悔」「議論」といった言葉を使うと、意味が分からずに聞き返されることがあります。
では、この差はどこから生まれるのか。
言葉の弱い子のご家庭には、一つ共通点がありました。
会話が少ないのではありません。
むしろ逆で、ていねいなご家庭ほど当てはまることがあります。
やさしく言い換えるほど、言葉は渡らない
子どもに分かるように伝えようとして、大人の語彙を避け、すべて子ども向けの表現に置き換えているのです。
・「会話する」→「だれかといっしょにおはなしする」
・「謝罪する」→「ごめんなさいって言う」
・「議論する」→「どっちがいいか話し合う」
・「投票する」→「みんなでこれがいいよね、って決める」
・「後悔する」→「あとからやっておけばよかった、って思う」
どれも意味としては正確です。子どもにもちゃんと伝わります。
ただ、伝わっているのは意味であって、言葉ではありません。
「議論」という音を一度も聞いたことのない子の中に、「議論」という言葉は残りません。
使われない言葉は、知らない言葉としてすら記録されないのです。
これは、ご家庭の責任という話ではないと思っています。私自身、子どもに何かを説明するときは、つい分かりやすい言い方を探します。相手に伝えようとすれば、そうなるのが自然です。
だからこそ、意識していないと気づけない部分だと思っています。
研究でも、「量」より「どんな言葉か」
親子のやりとりを追跡した海外の研究では、家庭の状況や会話の総量、その子のそれまでの語彙力を差し引いてもなお、保護者が多様で少し高度な言葉を使っていた子どものほうが、一年後の語彙力が高いという結果が出ています。
たくさん話すことと、いろいろな言葉に触れることは、別のことだということです。
日本の小学生を一年生から五年生まで追跡した高橋登の研究では、ひらがなを読む速さや漢字の処理の効率は、学年が上がるにつれて読解力への影響が薄れていきました。
一方で語彙だけは、低学年から高学年まで一貫して読解力を左右し続けています。さらに、読むことで語彙が増え、増えた語彙がまた読解を支えるという、往復の関係も指摘されています。
さらに、イギリスで行われた実験では、語彙を含む話し言葉の力を育てる指導を受けた子どもたちの読解力が、受けなかった子どもたちより伸びました。
語彙は、相関があるというだけでなく、手を入れれば動く部分でもあります。
語彙は、あとから足す飾りではなく、最初から最後まで効き続ける土台だということです。
言い換えるのをやめて、言葉ごと渡す
では、家庭で何をすればいいのか。
特別な語彙教材も、暗記も要りません。
やることは一つで、言い換えるのをやめて、言葉と意味をセットで渡すことです。
・「今日は投票で決めよう。一人一票、いいと思うものを選んでね」
・「それはあとで後悔するかもしれないね。やっておけばよかった、と思うことだよ」
・「意見が違うね。少し議論しよう。理由を出し合って考えることだよ」
先に大人の言葉を出し、そのあとに短く意味を添える。それだけです。
一度で覚える必要はありません。同じ言葉に違う場面で何度か出会ううちに、輪郭がはっきりしてきます。
そして、子どもから「それ、どういう意味?」と返ってきたら、それは失敗ではありません。
むしろ、その言葉が子どもに引っかかった合図です。
言い換えていたら、その質問すら生まれませんでした。
難しい言葉で話す必要はありません
いつも子どもに分からない言葉で話せ、という話ではありません。保護者が言葉の先生になる必要もありません。
思い出していただきたいのは、子どもがもともと日本語を一つも知らなかったということです。
赤ちゃんのころ、周りは知らない言葉だらけでした。その中から、場面と表情と前後のやりとりを手がかりに、一語ずつ自分のものにしてきました。
その仕組みは、小学生になったからといって止まりません。触れさえすれば、いまも同じように咀嚼していきます。
子どもはいつか大人になり、社会に出ます。
使える言葉が増えると、文章が読めるようになるだけでなく、自分の気持ちを整理することも、考えを正確に相手に渡すことも、はるかに楽になります。
家庭の会話を勉強の時間に変える必要はありません。
ただ、「うちの子には難しいかな」と大人の言葉を引っ込めそうになったとき、一度だけ、そのまま出してみる。
このコラムが、その一回のきっかけになれば幸いです。
参考にした研究
高橋登(2001)「学童期における読解能力の発達過程―1-5年生の縦断的な分析」『教育心理学研究』49, 1–10.
Rowe, M. L.(2012)“A Longitudinal Investigation of the Role of Quantity and Quality of Child-Directed Speech in Vocabulary Development.”Child Development, 83(5), 1762–1774.
Clarke, P. J., Snowling, M. J., Truelove, E., & Hulme, C.(2010)“Ameliorating Children's Reading-Comprehension Difficulties: A Randomized Controlled Trial.”Psychological Science, 21(8), 1106–1116.
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